チコ・ブラーエ
Tycho Brahe
 生 : 1546年12月14日 クヌートストルップ
 没 : 1601年10月24日 プラーグ
 ファーストネームで呼ばれることの多い、肉眼のみを使った最後の天体観測家。

 貴族の家柄に生まれ、コペンハーゲン大学、その後ライプチヒ大学で法律と哲学を学ぶが、1560年の日食の観測、1563年の木星土星の会合時期のずれなどから天文への関心を高め、翌年から天体観測を始める。 1572年に新星を観測し、「新星について(De Nova Stella)」を表した。 この中で、新星の視差が検出されないことにより、この星は月よりも遠い、天界に現れたことを示し、アリストテレスから続いた、天界は不変で永久である、という考えに疑問を投げかけることになった。
 この観測がデンマーク国王フレデリック2世の目に留まり、フヴェーン島に建てた天文台を与えられ、彼は多くの助手を使い、恒星と惑星の精度のよいたくさんの観測を残した。 平均1’、最高のものが2”という精度で1000個以上の恒星、惑星の位置を観測している。これは、肉眼で得られる最高の精度である。
 1588年に発表した「天界の新現象」では、天動説と地動説の折衷案とも言える、地球を中心に太陽がまわり、太陽の周りをその他の惑星が回る、という「チコの宇宙体系」を発表した。 これは、実のところ地動説と同じ事だが~地動説での惑星運動を地球から見た運動に置き換えたものがチコの体系になる~根本的な考え方が天動説のままであったため、ほとんど無視された。 チコ自身は、コペルニクスの体系が惑星運動の説明に非常に優れていることをよく理解していたが、地球が運動しているということを信じることができなかった。
 1588年にフレデリック2世が亡くなり、王がクリスチャン4世になると、金のかかる~この天文台は建設費だけで5億円以上かかったらしい~天体観測は無用のものとされ、チコは放免されてしまった。
 プラハの皇帝ルドルフ2世に招かれてプラハに移ったチコは、ケプラーを見出し、死の直前に「自分の生涯が無駄にならないように」と遺言し、1601年に死去した。

 チコの生涯は、もちろん無駄にならなかった。彼の観測結果がケプラーによって~チコの望む体系ではなかったが~宇宙体系成立の基本資料となったのである。
データ出典: 科学技術人名事典:アイザックアシモフ