フラムスチード
John Flamsteed
 生 : 1646年8月19日 ダービーシャのデンパイ
 没 : 1719年12月31日 グリニッジ
 つい最近閉台したグリニッジ天文台の初代台長。

 十代で重い病気にかかり学校をやめたが、天文学書を読み興味をおぼえ、天文観測機器を制作するようになった。1670年にいくつかの研究成果を発表。その縁でニュートンと知り合い、ケンブリッジ大学に入学した。  当時イギリスは大航海時代だったが、海上で正確な経度を求めるには精密な星表が必要であるとし、国立天文台の設立を懇願した。時の王チャールズ二世はそれを受け入れ、グリニッジに天文台をたて、フラムスチードを台長に任命した。
 建物だけはできた天文台での仕事は忙しく、給料も安く助手もおらず設備もなく健康もすぐれなかったが、自作の機器を置き、寄付を願い、精力的に仕事をこなした。 そんな中でもフラムスチードは完全さを求め、観測成果をなかなか発表しようとしなかった。そのため、当時の大天文学者たちと衝突した。 ニュートンなどは、フラムスチードの仕事は、要求された観測を迅速に行なうような、従属的なものである、と考えていたが、フラムスチードは、自分の仕事はもっと地位の高いものだと考えた。 完全さを求めるフラムスチードと、他人の立場に立って考えられないニュートンは仲違いした。
 完全さを求め一向に成果を発表しないフラムスチードに業を煮やし、ニュートンの友人ハレーがフラムスチードの観測結果を何とか入手、発表した。フラムスチードは激怒し、ハレーをののしり、それらを焼き捨ててしまった。 この事件でフラムスチードは仕事の完成を急ぎ、ついに完全な星表を出版した。これは望遠鏡観測が始まって最初の正確な大恒星表となった。その中で彼は、各星座ごとに赤径順に番号を付け、「フラムスチード番号」として、現在も使用されている。

 国際的に共通の経度を定めることが決まったとき、グリニッジ天文台を通る子午線を基準にすることになった。経度を正確に求めること、それがフラムスチードの仕事だったのである。
データ出典: 科学技術人名事典:アイザックアシモフ